コジマF-1 ※ 写真をクリックすると拡大写真が見れます。
1976年 富士スピードウエイで開催された第一回 「F1 in Japan」。 日本で初めて開催されたF1レースである。 プライベート参戦のコジマF1(京都)を富士レース村の近藤レーシングがサポート。 予選一回目で長谷見選手が総合4位 1分13秒88をマーク。予選2回目でスリップにつく車探しで様子見程度の走行で出したタイム。そこで予選2回目を待たずに緊急記者会見が開かれた。スポンサーもついていない東洋の名もない車に乗る名もない選手がいきなり余裕で予選4番手タイムをたたき出した事に驚いた英国BBCなどの外人記者が 「バックにトヨタやニッサンがついているのか?それともホンダか?」と詰め寄ってきた。 ところがその後の走行でKE007は最終コーナーで大クラッシュしてしまう。 フロントサスペンションが壊れたのが原因らしい。 そこからあの伝説の大修理が近藤レーシングで行われた。 金曜のクラッシュから連続40時間不眠不休の修復作業が始まった。京都から図面を取り寄せ必要な資材を揃え、土曜の深夜にようやく本格的にモノコック組み立てが始まった。翌日決勝日曜朝7時にはKE007の復旧作業は完了。フリー走行の1時間半前の事である。 当時レース見学に来ていた近藤氏の知り合いのレースエンジニア達も次々と無償で作業に参加した。長谷見選手は感謝の気持ちでケンタッキーの差し入れをしたと述べている。
近藤氏の話によるとサスペンションの強度を上げる為に図面にあるフロントサス部分の10ミリボルトをすべて12ミリに変更する作業が大変だったらしい。修理というよりもう一台別の車を作った様なものだったらしい。変更箇所があるので図面通りに新車を作るのより困難な作業だった。現在もそのクラッシュして曲がったKE007のモノコッムフレームが近藤レーシングガレージの屋根裏に保管されている。
KE007不在の土曜の2度目の予選でラバーグリップを使って外人勢がタイムをつめ長谷見KE007は予選10番手まで落ちていた。
予選ポールはアンドレッティの1分12秒77。ところが長谷見がクラッシュした周回のヘアピンまでのタイムの方がポールのアンドレッティより速かった。サスペンション破損クラッシュがなければまた別の伝説が生まれていたかもしれない。
決勝は大雨。同じ年のニュルブルクリンクで大クラッシュ大火傷の後3ヶ月で奇跡の復活をとげたポイントリーダーのニキ・ラウダ。Jハントはラウダの休養中3ポイント差まで追い上げていた。ところが富士決勝当日の大雨でラウダはレース中止を訴える。それでもスタートを決定した主催者に対して抗議の意味で2周走ってラウダは自らリタイヤした。結果1ポイント差でハントがシリーズチャンピオンの座についた。
長谷見は11位でフィニッシュ。 一晩で作り直した車体で決勝レース中のファステストラップを記録!!! 星野一義選手が型落ちのティレル007で予選21番手からソフトタイヤで追い上げ一時総合3位を走る健闘を見せたが27周でリタイヤした。
当時来日していたロータスチームのコーリン・チャップマンは後にこう述べている。
「私は日本に行って2つの奇跡を見た。ひとつは名もない車に乗る名もないドライバーが驚異的なタイムを叩き出した事。それともうひとつはクラッシュしたF1マシンを一晩で作り直した男達がいた事」
ロータスの創始者、天才コーリン・チャップマンが奇跡だと賞賛した近藤レーシングガレージの仕事。
野次馬で見学に来ていた技術者を次々を呼び込み、力をあわせて不可能を可能にする。まだ力強く成長していた当時の日本のパワーを象徴するかのような出来事であった。
翌1977年も富士F1は開催された。
日本人ドライバーは3人参加。
近藤レーシングでは高橋国光氏のタイレルをサポート。
結果は
9位 高橋国光 タイレル007 11位 星野一義 小島KE009 リタイヤ 高原敬武 小島KE009 となった。 観客を巻き込む事故がありF1開催は1977年限りとなった。 F1が次に 富士 にやってくるのに30年という時間が必要になった。
復刻されたKE007
2006年3月にFSWで開催されたタイムマシンフェス。 そこに復刻されたKE007が展示された。 1976年当時はアルミモノコックが採用されていた。