KONDO RACING GARAGE

       近藤レーシングガレージ の 歴史


あなたは本当の 「近藤レーシング・・・」 をご存知ですか?

日本のレース史を語る上で絶対に欠かす事のできない 近藤進治(昭和21年生)さんの 「近藤レーシングガレージ」。
サンエスホンダ、伝説のヨシムラでの修行時代を経て1974年に富士スピードウエイのレース村に「近藤レーシングガレージ」を設立。

日本初のF1 プライベートプロジェクト 「マキF1」 「コジマF1」 に深く関わりを持ち、
1976年の 「 第一回F1日本グランプリ 」(富士スピードウエイ) においてあの伝説のコジマF1の 「奇跡の大修理」 を成し遂げる。
当時来日していた F1の神様コーリン・チャップマン(ロータスの創始者)が 「私は日本に来て奇跡を見た」と賞賛した近藤レーシングガレージの仕事。

その後 ルマンプロトタイプカー 「童夢RL」 (1979年) のルマン参戦もサポート。
TOMS グループ5 カローラを作製してマカオ参戦 (1980年) 富士グラチャンシリーズ、TOMSグループCカー製作、
パジェロバリダカサポート、マツダロータリールマンプロトタイプカー、ミラージュカップ、34GT−Rスーパー耐久シリーズ、などなど・・・・

「近藤レーシングガレージ」 は日本のレース史と共に輝かしい実績を残してきました。

このページでは近藤さんのご協力をいただき貴重な写真と共に「近藤レーシング」の歴史を紹介していきます。


※ この写真集で見てもらいたいのは、小嶋F-1の物語があの時ポっと現れたのではなくて鈴鹿サーキットが出来る前、浅間時代、いや富士登山レースからの2輪レースがあって野山を駆けずり回っていたすばらしい仲間たちからの流れから続いていて小島松久、長谷見昌弘。デザイナー、エンジニアも鈴木板金(BELLCO)の親父や生沢徹、林穂、本田博俊、三村兄弟、金古直彦(MANA・USAを企画運営)がいて小野昌朗。戸坂六三・山梨俊輔の弟子、解良喜久雄という流れのなかでの出来事でその場にいた仲間がみんな協力してくれたのを理解してほしいのですが、まだまだ枚数がたりないですね!
 
   サンエスホンダ   1964

 サンエスホンダ時代の写真アップしました。

   ヨシムラ/eva  1967  ヨシムラ時代の写真 他  富士1000キロ耐久レースにドライバーとしてエントリー。
   MANA USA  1972

 マキF1の先駆 国産初のF2マシン。軽フォーミュラのエバを製作していた三村健治の作品。北米レース参戦をサポート。

   MANA BELLCO  1973  写真のみアップしました。
   近藤レーシングガレージ設立  1974  1974年近藤レーシングガレージ設立 日本海間瀬サーキットグラチャン他
   マキ F−1  1974  日本初のF1プライベートチーム。ヨーロッパのGPレースを転戦。
   小島 F−1  1975  【必見】 あのロータスの創始者のコーリンチャップマンが奇跡だと驚いたコジマF1の大修理。
   童夢RL  1979  童夢RLのル・マン参戦をサポート。とりあえず写真のみアップしました。後日解説アップします。
   マカオ グループ5レビン  1980  トヨタトムス グループ5 TE71レビンでマカオ遠征。 ハチロクファンも必見!グループ5はやはりすごい・・・
   パリダカールラリー    ミツビシパジェロでパリダカール参戦
   ミラージュカップ    ミラージュカップ
   S耐 34GT-R  1999  スーパー耐久 34GT-Rで参戦 ※解説アップしました。
   グラチャン グループC 他    写真アップしました。
   日本のレース界の歴史(家系図)    誰も知らない(やらない)日本のレースの歴史表 (未完成 製作途中)